くらげ

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掌編。
夜、思い付きを自動筆記まがいで。

***

――くらげだ。

平日の真昼間であっても、雨が降って、どうしようもなくふさぎ込むことはある。よりにもよってそういう日に、カーテン越しのひすい色の陽を浴びながら、長くひらひらと装飾的な触手を蠢かせ、くらげは浮かんでいた。
くらげというのは大昔は水中に住んでいて、比較的下等な――下等なというのは昨今どうも差別的な言い方だとして是正されつつあるのだが――単純な構造で生存する生物だったのだという。たいていのくらげは海にいたのが、ここ数百年ぽっちの間にいつの間にか爆発的な進化を遂げ、空気中にふわふわと浮かび、人間を模した頭と胴体を持つようになった。腕と脚は触手のままで、その触手の何本かを服のようにして胴体を包んで守っているようだ。それ以外の触手はひらひら漂うままにしてむちゃくちゃに絡ませながら、彼らはただ、大気に浮かび、漂っている。
くらげの、宝石のような双眸が私の方をじっと見つめているようだった。目を合わせてはいけない、と学校で習った。
彼らの触手に毒があることはよく知られている。触手の色や形は様々だが、棘を持った触手で人間をはじめとする生物を捕食していることはどのくらげも変わらないらしい。

〈 万一くらげが室内に侵入した際は、絶対に触らず、専門業者へ連絡してください 〉

万一のくらげ駆除に備えて冷蔵庫に貼っておいたマグネットに書かれた番号を確認する。
そうこうしている間にくらげは自らめちゃくちゃに絡ませていた触手を、自ら少しずつほどきはじめたようだ。丁寧に、ゆっくりと、驚異的な器用さで。
棘のある触手が見える。半透明のれもん色をしていて、しゃらしゃらと音を立てて揺れている。刺々しい触手の先には硝子質のひときわ大きな針を伴っていて、つまりはあれがとどめの一撃を刺すためのものなのだろう。

本当なら今日は、ついおととい別れた恋人と映画館に行くはずだった。些細なすれ違いも重なればそれなりの事由になってしまうもので、実際もはやあんなやつのことはどうだってよかったけれど、くらげの透き通る肌は、すこしだけその恋人に似ていた。
別れた恋人はくらげに刺されて幻覚を見たことがあると言った。神経毒、痙攣――。ちりりと指を刺したあと、その毒は間もなく頭の方へと回ってくる。そのときに見えた幻覚の、色鮮やかで美しかったこと――、そういって恋人はうっとりと目を閉じていた。
くらげの毒には個体差もありどんな症状が出るかは分からないので、絶対に刺されることのないように、と保健所からのチラシでは度々啓発されているが、実際のところ刺される人間は後を絶たない。どういう経緯で刺されたか、どのような症状が出たのかは人それぞれだと聞くが、目を合わせてはいけない、と生存者はみな話すのだった。
「目を合わせるな、」そんなことは知っていたし理解していたつもりだったけれど、電話を取ろうと振り向いたふとした瞬間、油断から、ばちんとくらげと目が合った。そのまま私はその場にへたりこんだ。こんなに美しい生き物がいてたまるものかと、息を呑んでくらげを見つめると、くらげは私の心を読んだかのようにれもん色の触手をこちらへ伸ばしてくる。
きらきらと半透明の目でじっと私を眺め、髪を束ねて露わになっている私の項を品定めするように、れもん色の触手の針先でつうとなぞる。
――このうつくしい生き物に、刺されてみたい。その後がどうなってもそんなことはどうだっていい。

私は触手をそっと撫で、太い針の先を首筋に宛がった。
くらげの方を向いて私がこくんと頷くと、くらげはゆっくりと自らの針を差し込んでくる。
刺された瞬間、体がふわっと重力から自由になった。
くらげは、私の首筋を何本かの触手でいたわるように撫でながら、針の先から私の身体へ毒を流し込んだ。
身体がどんどん軽くなる。身体が宙に浮かんでしまう。まるで大気の側が私を招いたように、自然に肉体の重さがなくなってゆく。

くらげは私の方を愛おしげに眺め、触手で私の服をはぎとり始めた。ああ、なんだ、私はくらげになってこの個体と番うのか。
少しずつ腕や脚が裂けて触手になっていくのが分かる。人間でいるのにも飽きたからそろそろくらげになるのもいいか、なんて思うのが、毒のせいなのか自分の本心なのかは分からない。

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