愛しいものとの時間を過ごすとき、その終わりについて考えることをやめられない。いつもそうだ。
家族や友人と何気ない食事をするとき、愛らしい飼い猫の年齢を聞いたとき、すやすや眠っている恋人を見るとき、いつも心のどこかでその残り時間が怖い。
恋人は寝起き、いつも顔も耳も真っ赤にしている。赤ちゃんみたい。
昼寝、カーテンを閉めた薄暗い部屋で、赤い顔で呻くのを隣で見ながら腹に手を当てる。
腹か、さもなくば頭か、胸か……どんなに無事に生きたって、いつかはどこかが壊れて、すべてなくなってしまう、二人とも、ここからいなくなる。
肉を焼ききったあとの相手の骨に触れるのは、私か、彼か、どちらなんだろう。それともどこかで道を違えて、逝く日にはもう、私たちは他人として生きているかもしれない。今はまだ想像もできないけれど。
今年の夏、母方の実家に行った。北海道の田舎だ。私と恋人と母で、祖母たちに会いに行って、祖父たちの墓参りをした。
数年前に逝った祖父の遺骨はロッカー型の納骨堂に収められていた。祖母はいつもわざわざロッカーを開け、「お父ちゃん、今日も来たよお」と愛おしそうに言いながら骨壺を抱きしめているといった。
祖父は寡黙で、祖母のかまびすしいおしゃべりを黙って聞く人だった。祖母は死後の祖父が聞いていると疑っていないだろう。
死後に残る意識や霊魂そのものを私は信じていないけど、そのときばかりは、そういう世界を一緒に信じたいと思った。
死後の世界を信じることや死者を祀ることは、死者を忘れないことそのものもそうだけど。
たとえば古い「家の墓」みたいなものを考えると、死後、自分も、顔も知らない血縁の誰かに「ご先祖様」として漠然と思いを馳せてもらえるのだと信じているからできる行動なんだと思う。約束のような。
私はあまりそれが好きではないから、どう葬ってもらうか考えておかなければいけない。
どうやって記憶にとどめてもらうことが、生者と死者、お互いのなぐさめになるんだろう。
こういう思いが色濃く反映された戯曲になっていると思うけれど、
どこかが壊れ、命をなくした誰かのなきがらを、心の底から愛おしく扱うことが、多分まだできない。肉も骨も怖い。
どう受け止めればいいのか、わからないまま過ごしているし、先人たちからいくら語られたって、自分たちなりの受け止め方を考えないわけにはいかない。
#3「あの星にとどかない」19/11/2~19/11/4
詳細: http://h2so4onyourlips.me/2019/10/07/post-166/
予約: https://www.quartet-online.net/ticket/anohoshi