ラズベリー

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習作

もっときれいに

***

 (宇宙というのは、甘い匂いがするんだよ。)――

 彼の言葉が聞こえたような気がして、目を覚ます。枕もとを見ればAM 2:37とデジタル数字で表示される時刻、どうしてだか、これは、全くどこにも存在しえない時刻であるような気がした。まるで、宙に浮いた数字であるような。たとえば、時間というものが、完璧に敷き詰められているかのように見えるそのレールを外れてしまうことは、あるのだろうか。物理学をきちんと学んだ人に聞けば分かるのかもしれない。あいにく私は数式を扱う才能に恵まれなかったから、いちばんはじめに習った、自由落下の速度の公式、ぐらいしか、物理の知識は持ち合わせてはいなかった。
 自由落下はもっとも美しい運動の一つだと思う。宙に身を投げて、ひととき、この惑星の重さから解き放たれる瞬間、それはどれほどの快楽であるだろうか。そして、自由を得たように思った次の瞬間、惑星の中心へ、強い力で再び引き寄せられてゆく、その被虐的な陶酔は、いかほどか。

 寝息を耳に感じて、ようやく自らの、そして彼の肉体を意識する。起き抜けなどは特に、私の意識はよく、ひょっと体を抜け出したように空回るのである。仄明るい天井をスクリーンにして、私は身体を捨て、夢と空想の間を行き来している。
 ――たとえば彼の言葉に嘘偽りがないのなら、と考える。
 ――あの使い古されたラブソングのように、いっそ、本当に私を月まで飛ばしてくれたなら?
 だとしたら、の後に続けるべき言葉がたしかにあったはずなのに、静謐な夜の揺らぎがその言葉を隠してしまう。揺らぎの中に訪れる、まるでこの惑星の大気が、このごく一瞬だけ静止したかのような静寂。
 静寂に身を竦めて気付いた時にはもう、こち、こち、と、からっぽの夜が更けてゆく音が続いている。

 どうせ寝つけやしないのだからと、彼を起こさないようにそっと腕の間から這い出て、ベッドを降りる。ひんやりとしたフローリングに足の裏を沿わせて、静謐な夜の空気の肌触りを確かめるように衣服を脱いでゆく。
 彼の寝息にリズムを合わせるように、私も息をしてみる。静かで、穏やかで、世界に何の疑いも持たない寝息をお手本にして。色素の薄い猫毛も、バランスの良い形をした手も、その身体が放つやさしい匂いも、彼の肉体の全てをいとおしく思い、胸がいっぱいになる頃合いで、息を吐く。
 彼の遺伝子と私の遺伝子は、どう合わさって、どんな子どもになるのだろう。

 (宇宙というのは、甘い匂いがするんだよ。まるでラズベリーだと、飛行士たちは口を揃えて言うんだ。)――

 ラズベリーを庭に植えたいと言ったのは彼だった。地球の周りを覆い尽くす強烈な香気によく似ているのだと言って。毎朝、私が夏に作ったラズベリージャムを塗ったトーストとミルクを朝食にして、彼は仕事に出る。毎朝、その食卓を片付けながら私は、手作りの赤い実のジャムの瓶は、孕まなかった子宮に似ている、と思う。もちろんわたしの経血から宇宙の匂いはしない。饐えた血の臭いだ。ここ三年、一日も狂うことなく、二十七日周期で剥がれ落ちては新しく蓄えられる、私の子宮内膜の、なれの果てだ。

 水を、飲もうとしたのだっただろうか。
 冷蔵庫を開けて目に飛び込んできたジャムの瓶を、私は反射的に掴んでいた。私の子宮のあるはずの位置にジャムの瓶を宛がい、瓶のふたを開ける。甘怠い果実の匂いのする赤いものが、床へ勢いよく零れ落ちた。
 飛び散って、乳房についたジャムを、掬い取って舐めると、また、饐えた匂いがしたような気がした。

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